45歳独身女の独白

「ブログを書く時間がない」という理由で会社を辞めた45歳独身女の独り言

小説心中〜宇佐見りん「推し、燃ゆ」~

呪縛を解くドトールコーヒー

8:30。富士見台駅。

 

胃が重い。前頭葉も重い。

普段は意識しない内蔵の、所在と重さをやけに感じる朝である。

 

駅の上りエスカレーターの途中、「これが脂肪1キログラムです」とにこやかに乳白色の塊を持つ男性の写真に胃がゔッぷと反応した。

 

いま、それと同じような白いものが、頭頂部あたりに停滞し、運動機能全般を鈍らせている。

 

昨夜、予定外の焼肉屋で、琥珀色をした、躍る炭酸が楽しげな飲み物、つまりハイボールを、調子に乗って飲みすぎた結果である。この因果は甘んじて受け入れるべきであると思う。

 

ゆらゆらと漂うように自動改札を出る。

 

胃の指令に基づき、改札を出てすぐのドトールに入り、コーヒーを体に流し込む。

 

程よい苦味の、褐色の液体が、頭頂部に停滞する乳白色の塊を、さらさらと撫でるように溶かしてゆく。半分ほど飲み終える頃には、倦怠感はほとんど消えてなくなり、からだはすっきり覚醒していた。

 

内蔵はよく働いてくれる。毎日休みなく。眠ることもなく。とても優秀である。それに引き替えわたしの日常といえば…惰眠を貪り、肉を喰らい、酒に燥ぐ。一体何の価値を生み出しているのか、甚だ疑問である。

 

ひとまず惰眠はそんな優秀な内蔵へのねぎらいということにしよう。

 

読みかけの宇佐見りん「推し、燃ゆ」を読む。

天才小説家、宇佐見りん

21歳にしてこの成熟。天才。

この世にどれだけの天才が存在するのか、考えたこともないが、宇佐見りんがその一人であることはまず間違いない。

 

もはや現実の住人が描く小説ではなく、小説の住人が現実を描いている。小説に住む人、宇佐見りんである。

 

昨年話題になった小説だが、まったく張ってなかったので、存在はうっすら認識はしていたものの、手に取ることはなかった。それが今になって飛び込んできた。

 

書き出しでもう震撼した。

 

読み始めたら最後、魂を鷲掴みにされたまま、小説と心中する結果となりますのでご注意を…

 

もう四十路半ばとなるのに体が記憶している、青春の匂いと風景。

 

教室の窓、冬のストーブ、廊下の足音、上履きの汚れ、プリントを後ろに回す時の手ざわり、インクの匂い、椅子を机に重ねて教室の後ろに運ぶ時にぶつけた脛の痛み…精緻な描写が当時の記憶を鮮やかに呼び覚ます。

 

ふと、大学生の頃に読んでいた、坂口安吾の「暗い青春・魔の退屈」という短編小説集を思い出した。その短編集に対するわたしの愛着は異常な程で、当時、表紙カバーの折り目が破れ落ち、とれた破片を栞がわりに挟んでなお持ち歩くほど、破壊的・偏愛的な読み方をしていた。

 

なにも太平洋戦争が青春を暗くしていたのではない。青春とは暗いものだ。青春は戦争そのものだ。そのように青春を看破した安吾に呼応するかのように、「推し、燃ゆ」の全般を生存の「重さ」が支配している。

 

"肉体は重い。水を撥ね上げる脚も、月ごとに膜が剥がれ落ちる子宮も重い"

 

"勝手に与えられた動物としての役割みたいなものが重くのし掛かった"

 

なべて青春というのは、誰にも平等にこの”重さ”がつきまとうものではないかと思う。

 

タイトルにある「推し」というのはここでは偶像崇拝する対象、いわゆる「アイドル」である。 

 

主人公のあかりが推したのは、アイドルグループ「まざま座」の上野真幸(うえのまさき)。

 

あかりは真幸の「眼球の底から何かを睨むような目つき」で気づく。自分の中にも同じものがあることを。そして、その「目つき」こそがこの重くのしかかるような現実を生きるエネルギーになっていることも。

 

その「目つき」は、周りの大人は誰ひとり自分を、ひとりの人間としての自我と実存を認めてくれないという現実への絶望と怒りから放たれるものであった。

推しか、死か。

炎上し、引退していく「推し」。

 

ピーターパンが大人になる、そのリアルの厳しさと距離の優しさ。実存の危うさ。

 

「推しは命に関わるからね」と、友人の成美があかりに言う。

 

推しを推すのは命がけの所業だ。

 

高校のクラスメイトに、現実世界の全てはTMネットワークを中心に回っているあっちゃんがいた。あっちゃんは小室哲哉でも宇都宮隆でもない、木根尚登推しだった。

 

あの、あっちゃんの狂的な、全生命を賭す木根への忠誠、愛し方にこそ「推し、燃ゆ」の青春を見るのである。

 

そして、全生命を賭す何かがある限り、きっと青春はどこまでもつづくのだろう。

 

ハイボールでフツカヨイの身に青春の日は遠いが、限りある命の時間を、狂うように、捧げるように生きれたら幸せだろうなと思う。

 

重かったはずの胃も前頭葉も、今では黒子のように存在を消し、粛々と生命維持活動を続けている。感謝。