営業兼インド料理屋放浪
隣の客はよくナン喰う客だ。
わたしは時折、このように自分のことを、隣の客になりすまして見ていることがある。
よく行くインド料理屋でも、調理場にいるインド人の店員と以心伝心、見たものを石に変えるというメドゥーサの如き眼力で、目を合わせただけで即座に追加のナンが運ばれてくる、とまではいかないけれども、店員と目を合わせ、人差し指で数字の「1」を示した後、拝むように両手を合わせれば、追加のナンが焼き上がるという具合だ。
以前勤めていた不動産会社で残業をしていた際、「小腹がすいた」とおもむろに鞄からアルミホイルの小包みを取り出し、昼食の際に残して持ち帰ったナンを食べ始めたときには、上司も唖然、周りの同僚も、半笑いの呆れ顔だった。
また、同じ不動産会社の別の支店では、営業に出かけるとき、行き先を書くホワイトボードに「高津区」と書いて事務所を出たのだが、食事は隣の多摩区にある行きつけのカレー屋にしようと、高津区の仕事を終え、多摩区へ向かって車を走行中、上司の車とすれ違ったのも気付かずに、のちに携帯を確認したら、その上司から「そっちはカレー屋ですよ」というメールが入っていたこともあり、さすがにそのメールを見た時には車の中で苦笑したが、とにかくわたしの無類のカレー好きは、もう業務遂行上の共通認識として、周知のこととなっていた。
まわりからは、小池さんは営業ではなくカレー屋に向かった、と思われていたようだが、もちろんそんなことはなく、ただ、営業に行く先々で、カレー屋を見つけては入るというのを、ひとつの楽しみにしていたのは確かなことである。
そのように、首都圏の、主にインド料理屋を中心に探究してきた過去数年に渡る味覚体験の中で、3本の指に入る推し店の一つが、東急田園都市線「すずかけ台」駅徒歩1分のインド料理屋「マラバル」である。
地味で異色な店「マラバル」
すずかけ台駅。
仕事がなければ降りることはなかったであろう、東急田園都市線各駅停車の駅。
改札を出るとすぐ左側にローソンがあるが、ほかにあるものと言えば信用金庫、ドラッグストア、歯科くらいなもので、スーパーやパチンコ屋、ディスカウントストアなどの類はなく、ほんの少し歩けば、すぐ閑静な住宅街が広がる、ひっそりした街である。
「マラバル」は、そんな閑静な住宅街の中にあって、ひときわ異彩を放っている。
外から店の中をうかがうと、営業していないのでは?と思われるほど、中の様子が暗くて見えない。かなりドアに顔を近づけてみて、ようやく人がいるのを確認し、店の中に入る。
初めのころは、この店に来るたびに、注文したことのない他のメニューをたのんでいたが、ある時からCセットの、バターチキンカレー、辛さ普通、ナン、マンゴーラッシーに落ち着いた。「マラバル」にくればメニューも見ずに即座にCセットの前述の内容を注文するようになった。
バターチキンカレーはお子ちゃまのカレーと侮らないでほしい。バターチキンカレーひとつで、その店の扱うトマトやスパイス、バターなどの質と量と鮮度と技量が推し測れるほど、その店を象徴するものであり、店ごとの個性が表れるメニューである。
また、決してわたしは辛いのが苦手なわけではない。
バターチキンカレーがもっとも美味しく感じられる辛さとして、「マラバル」では「普通」を選んでいるだけで、例えば他のマトン(羊)ともなれば、選ぶ辛さの度合いもまた変わってくる。
何を隠そう、わたしの家には、即座にスパイスカレーが作れるよう、下記のスパイスが常備されているくらいで、スパイスの配合と加減の研究には余念がない。
クミン
カルモダン
コリアンダー
ターメリック
シナモン
カイエンペッパー
クローブ
ローリエ
レモングラス
花椒
S&Bカレー粉(業務用)
スパイスカレー三昧境へ
とはいえ、出先で「今夜はカレーにしよう」と突然思い立つものだから、重複して購入してしまっているものや未開封のものもあり、おびただしい量のスパイス小瓶の密集に愕然とする。
また、なぜ購入したのか、いま考えると本当に理解に苦しむが、S&Bカレー粉(内容量400g)の真っ赤などデカい缶が、冷蔵庫の中で鎮座しており、賞味期限をみると2023.1.27となっている。恐るおそる蓋を開けてみて失笑した。その量、悠に2/3は残っているではないか。
これでは、「今夜なにしよっかな〜♪」などと悠長に献立に悩み惑うことなど、もはや許されない。
向こう3ヶ月は迷うことなく、ただひたすらにスパイスカレーを作り続けるのみである。
おそらく3ヶ月後には、世にも斬新なスパイスの掛け合わせで独自のメニューを開発し、新横浜にスパイスカレー屋を開業、タンドリ窯を構え、インド人を招聘して本格ナンを提供する、なんてなことを夢見つつ、日々研究に励んでいこうと思う。
「マラバル」のカレーが運ばれてきた。
ぷぅんという甘いナンの香りが鼻先をかすめる。
新鮮なバターを贅沢に使っている証である。
そして、贅沢といえば、パンにしろナンにしろ、焼きたてをいただくということ以上に贅沢なものはない。
生まれたての、初々しく柔らかな食感は、あの瞬間にしか味わえない至福である。
そんな至福のナンを手でちぎり、バターチキンカレーの、バターが溶けているあたりを目がけてグイと突っ込み、お口に運んで賞味する。ナンとカレーがお互い最高の相性である。
ナンがどんどん進む。はかゆく。そして、焼き上がりの時間を逆算して、調理場のインド人と目を合わせ、手話を交わす。追加のナンの注文である。
まー、確かにこれは、上司も同僚も隣の客も呆れるくらい、よくナン喰う客であることだなぁ。わたしは。
と、「マラバル」でひとり詠嘆にくれるのもいいが、当面のあいだは、自宅でスパイスの消費活動に専念したい。