インド料理屋放浪記
営業兼インド料理屋放浪
隣の客はよくナン喰う客だ。
わたしは時折、このように自分のことを、隣の客になりすまして見ていることがある。
よく行くインド料理屋でも、調理場にいるインド人の店員と以心伝心、
以前勤めていた不動産会社で残業をしていた際、「小腹がすいた」とおもむろに鞄からアルミホイルの小包みを取り出し、昼食の際に残して持ち帰ったナンを食べ始めたときには、
また、同じ不動産会社の別の支店では、営業に出かけるとき、
まわりからは、小池さんは営業ではなくカレー屋に向かった、
そのように、首都圏の、
地味で異色な店「マラバル」
仕事がなければ降りることはなかったであろう、
「マラバル」は、そんな閑静な住宅街の中にあって、
外から店の中をうかがうと、営業していないのでは?
初めのころは、この店に来るたびに、
バターチキンカレーはお子ちゃまのカレーと侮らないでほしい。
また、決してわたしは辛いのが苦手なわけではない。
バターチキンカレーがもっとも美味しく感じられる辛さとして、「
何を隠そう、わたしの家には、
クミン
カルモダン
シナモン
カイエンペッパー
S&Bカレー粉(業務用)
スパイスカレー三昧境へ
とはいえ、出先で「今夜はカレーにしよう」
また、なぜ購入したのか、
これでは、「今夜なにしよっかな〜♪」などと悠長に献立に悩み惑うことなど、もはや許されない。
向こう3ヶ月は迷うことなく、ただひたすらにスパイスカレーを作り続けるのみである。
おそらく3ヶ月後には、世にも斬新なスパイスの掛け合わせで独自のメニューを開発し、新横浜にスパイスカレー屋を開業、タンドリ窯を構え、インド人を招聘して本格ナンを提供する、なんてなことを夢見つつ、日々研究に励んでいこうと思う。
「マラバル」のカレーが運ばれてきた。
ぷぅんという甘いナンの香りが鼻先をかすめる。
そして、贅沢といえば、パンにしろナンにしろ、
生まれたての、初々しく柔らかな食感は、
そんな至福のナンを手でちぎり、バターチキンカレーの、
ナンがどんどん進む。はかゆく。そして、
まー、確かにこれは、上司も同僚も隣の客も呆れるくらい、
と、「マラバル」でひとり詠嘆にくれるのもいいが、当面のあいだは、
小説心中〜宇佐見りん「推し、燃ゆ」~
呪縛を解くドトールコーヒー
8:30。富士見台駅。
胃が重い。前頭葉も重い。
普段は意識しない内蔵の、所在と重さをやけに感じる朝である。
駅の上りエスカレーターの途中、「これが脂肪1キログラムです」とにこやかに乳白色の塊を持つ男性の写真に胃がゔッぷと反応した。
いま、それと同じような白いものが、頭頂部あたりに停滞し、運動機能全般を鈍らせている。
昨夜、予定外の焼肉屋で、琥珀色をした、躍る炭酸が楽しげな飲み物、
ゆらゆらと漂うように自動改札を出る。
胃の指令に基づき、改札を出てすぐのドトールに入り、
程よい苦味の、褐色の液体が、頭頂部に停滞する乳白色の塊を、
内蔵はよく働いてくれる。毎日休みなく。
ひとまず惰眠はそんな優秀な内蔵へのねぎらいということにしよう。
読みかけの宇佐見りん「推し、燃ゆ」を読む。
天才小説家、宇佐見りん
この世にどれだけの天才が存在するのか、考えたこともないが、
もはや現実の住人が描く小説ではなく、
昨年話題になった小説だが、まったく張ってなかったので、存在はうっすら認識はしていたものの、手に取ることはなかった。それが今になって飛び込んできた。
書き出しでもう震撼した。
読み始めたら最後、魂を鷲掴みにされたまま、
もう四十路半ばとなるのに体が記憶している、青春の匂いと風景。
教室の窓、冬のストーブ、廊下の足音、上履きの汚れ、
ふと、大学生の頃に読んでいた、坂口安吾の「暗い青春・魔の退屈」という短編小説集を思い出した。その短編集に対するわたしの愛着は異常な程で、当時、表紙カバーの折り目が破れ落ち、とれた破片を栞がわりに挟んでなお持ち歩くほど、破壊的・
なにも太平洋戦争が青春を暗くしていたのではない。
"肉体は重い。水を撥ね上げる脚も、
"勝手に与えられた動物としての役割みたいなものが重くのし掛か
なべて青春というのは、誰にも平等にこの”重さ”がつきまとうものではないかと思う。
タイトルにある「推し」というのはここでは偶像崇拝する対象、
主人公のあかりが推したのは、アイドルグループ「まざま座」
あかりは真幸の「眼球の底から何かを睨むような目つき」
その「目つき」は、周りの大人は誰ひとり自分を、
推しか、死か。
炎上し、引退していく「推し」。
ピーターパンが大人になる、そのリアルの厳しさと距離の優しさ。実存の危うさ。
「推しは命に関わるからね」と、友人の成美があかりに言う。
推しを推すのは命がけの所業だ。
高校のクラスメイトに、現実世界の全てはTMネット
あの、あっちゃんの狂的な、全生命を賭す木根への忠誠、
そして、全生命を賭す何かがある限り、
ハイボールでフツカヨイの身に青春の日は遠いが、
重かったはずの胃も前頭葉も、今では黒子のように存在を消し、粛々と生命維持活動を続けている。感謝。
小説酒場放浪〜新橋・ニューニコニコ~
新橋。17:30。
本屋営業パラドックス
営業は野球に似ていると思うときがある。
打たれてからの、つまり断られてからの心の在りようでその後の展開が変わる。
得てして思わぬ展開が待っていることが多い。
品川のB書店で福地さんに会う。
福地さんらしき人は先客と対応中だったので、
「出版社Kブックスの小池と申します。
「今日はご予約はしてますか」
「はい、15時から」
「少々お待ちください」
と言ってレジの女性が奥のバックヤードに通じる扉を開け、
すぐに青いエプロンを身につけた背の高い男性が出てきた。
挨拶をし、訪問の趣旨を伝える。
話をしている時からやや体を斜め後ろに反り気味にして訝しげな視
「基本、
ごもっともである。
福地さんの言葉が至極当然のような気がした。
と同時に、福地よ少しノリが悪いぞとも思った。
まあこういう時は無理強いをせず、相手の意向を受けて引き、
「お忙しい中お時間をとっていただきありがとうございました。
福地さんはまた先程のバックヤードに消えていった。
出鼻をくじかれ鼻先がつーんとした。3秒ほど虚空を見ながら、しかしすでにこころは隣の大崎に向かっていた。
この大崎から新橋までの3書店は、
先のことはわからないものだ。初見アポなしはリスクが多く、とりあってくれない確率が高いと言われていたが、そこを押して行ってみたら、思わぬ展開を引き寄せることができた。
引き際よく、あとを引かずに次に行けば、その逆もまた真なりという新たな展開を引き寄せる。これぞ「引き寄せの美学」。
と、よろしく着地が決まったところで、ここは新橋。自然、足がS
そして吸い込まれていくように入っていくのが、
憩いの地下街で読む「おいしいごはん」
なんなんだろう。
たぶん「郷愁」なのかもしれない。
無性にワクワクするのだ。
ニュートーキョー、ニューオータニ、ニューグランド、
だいたいにして名前に「ニュー」がつくものが実際において「ニュー」
この建物は、わたしが大学生のころから出入りしていた。
その頃、
当時フラメンコにも興味があったのだが、
正面の入り口を入ってすぐ右にあるエスカレーターを地下へと降り
【憩いの地下街】
地下フロアは、居酒屋をはじめ、バー、中華料理店、カレー屋、
それぞれの店内の様子を覗きながら徘徊するのも楽しい【
わたしは、おそらくエスカレーターを降りる段階から9割がたは決
ニューニコニコ。
まず、屋号がいい。ニコニコ。いつの時代も笑顔が人を癒し、
そして屋号に「ニュー」
午前11時から営業している居酒屋である。
禿頭・白髪率が高い。
入ってすぐ右の小上がりには常連と思われる、禿頭・
この店は焼きものがいい。
なにせ柔和な笑顔が可憐な女将さんが50年間この焼き場を守って
生ビールとサバの塩焼きを注文する。
隣の席の男性客はマグロの中落ちをつまみながら視線を真下に落と
生ビールがくる。
焼き場の女将さんが、
大相撲中継も終盤にさしかかり、
わたしはビールで喉を潤しつつ、
「二谷」と一杯
これほどまでにカップラーメンが美味そうに描かれている小説もな
何の因縁か、二谷は食に対して、そして女に対して根本的な「
弱者が勝者であり、強者が敗者であるという、
じっくり時間をかけて焼かれたサバの塩焼きを女将さんが運んでき
香ばしくパリッと焼き上げられたサバを一切れ、
大相撲中継は、結びの一番である大関貴景勝・
「浴びせ倒し」という聞きなれない技で貴景勝に土がついた瞬間、
店全体が一体となった瞬間だった。
少し時が止まったかのように思えたのも束の間、
結局、最後に勝つのは弱者に見せかけた真の強者か。
そして二谷よ。お前はいったい何がしたいんや。
不本意な職場と不本意な女の間でにちゃつくのもいいが、
食うに困りたくないから経済学部を選んだが、本心は文芸だろ。
ただ、どんなに「にちゃに」が煮えきらなくても、
芦川には誰も勝てん。
芦川最強説。
と、新橋「ニューニコニコ」
アングラ喫茶巡礼〜神田・神保町〜
ときめきの”アングラ”
11:30。神保町。
決してさぼるのではない。
れっきとしたランチタイムだ。
東京堂書店でIさんに会う。
電話でアポイントを取った時から思っていたが、なんてノリのいい人なのだろう。
考えてもみてほしい。
見ず知らずの、聞いたこともない出版社の女が、突然電話をかけてきて、会いたいと言ったら翌日会ってくれることになり、当日挨拶するなり、伏し目がちながらも親身に話を聞いてくれて、どちらかというと不得意とするジャンルの本を店頭に並べてくれるというのだ。
こんな伏し目がちな挑戦者は、藤井聡太九段以来である。もちろん藤井聡太九段がわたしに直接挑んできたことはない。
本屋の店内であるため、わたしは小声でIさんに謝意を伝えて東京堂書店を後にした。
初対面ながら初受注。やや小躍りしながら向かったのが1955年創業「さぼうる」
屋根を模したのだろうか、
魔除けのような彫刻が施された木柱と木製の梟が並んで通行人、
店内は期待を裏切らないアンダーグラウンド感。
忌野清志郎と思われるシャウトが低音で響き渡る。
入るとすぐ地下へ向かう階段と、中2階へ向かう階段がある。
わたしはこの、喫茶店内にある階段というものが好きで、
そんな、ときめきの階段を中2階へと進む。
嗜みと慎み
ピザトースト(大)とコーヒーを注文する。
ピザトーストに(並)と(大)があるのをはじめて見た。
チーズ好きである故に、迷うことなくピザトースト(大)
ピザトースト(大)とコーヒーが来るのを待つあいだにPCを広げ
おおよそPCをカタカタいわせるのが似合わない空間である。
思えばその存在を気にしながらも、
学生と思われる若い女性客が意外といる。
光が差しこむ、明るい、小洒落たカフェだけが今、求められているわけではなく、「
魅惑のピザトースト(大)
ピザトースト(大)が運ばれてきた。
すでに融点に達している大量のチーズが厚切りトーストにのしかかっているさまは、いやが上にもチーズ好きのこころを躍らせる。
喫茶店ではこのようないわゆる「軽食」が絶品であることが多い。
軽い食と書いて軽くあなどれないのである。
ひと口齧るとブラウンマッシュルームとトースト・オニオンがうねるチーズの隙間からするり抜け、マッシュルームは皿、オニオンはスカートをバウンドし床に落ちた。オニオン片をそっと紙ナプキンに包んで救出する。
そんな躍動感もピザトーストを齧る楽しみの一つである。
引き続き店内は忌野らしき声がこの店の均衡を保っている。
わたしはチーズの風味がお口に残ったまま終わってもコーヒーがあるので全く問題なか
「さぼうる」とはスペイン語で「味」という意味だそうだ。
お後がよろしいその爽やかな甘みに、どんなに時代が変わろうとも地下に埋もれない「さぼうる」の心意気をみた。
小説酒場放浪〜渋谷・鳥竹総本店~
記憶の迷路「百軒店」
渋谷。18:00。
東急百貨店を目指すのに、間違えて道玄坂を登り、
このあたりはやけに懐かしい。
Bunkamuraのシアターコクーンで明石家さんまの舞台を観
そんなまばらな記憶の断片が浮き沈みする界隈を不思議な感覚で歩きながら、
啓文堂書店では担当の方が不在、
この本を片手に啓文堂書店から徒歩10秒、昭和38年創業の「
ほの暗く昭和ニヒルな空間「鳥竹総本店」
扉を開けると逆くの字になっているカウンターで、
一番奥のカウンター席についた。
見上げるとずらり手書きのメニューが貼ってあり、いやがうえにも期待が高まる。
値段が書いてないのが少しく不安になるが、卓上に詳細メニューがあるのでひと安心。
三岳の水割り
首肉
ぼんぼち
煮込み
を注文し、早速「記憶の盆をどり」の扉を開く。
盆をどる
その日本語の豊かさと自在さによって、
賑やかな客の笑い声が聞こえる2階に対して1階は静か気ままに酒肴
そんなニヒルな空間で読むのにぴったりの「エゲバムヤジ」。
三岳の水割りがくる。
その名のとおり、野趣あふれる芳香が口の中に広がる。
首肉、ぼんぼち。
おしりフリフリさせながらせわしなく歩くさまが目に浮かんでしまう、その締まりのある弾力を塩で味わう。
単品でライスをたのもうかと迷うほど、
いい空間。いい酒肴。いい小説。
久々の渋谷で迷い込んだ百軒店でひとり、
哲学酒場放浪~横浜・野毛~
意のままに
桜木町。18:00。
この場所、この時間に仕事が終わった。
特段、狙ったわけではない。
作為でないとしたら、もう天の配剤と呼ぶしかないだろう。
道はひとつ。
野毛。
野毛一択である。
われただ天意に身を捧ぐのみ。
なんてことはさておき、とにかく歩きに歩いたし、喉が乾いた。
要するに麦酒、ビールである。
JR桜木町駅南改札前を横切り、エスカレーターを降りて「
地上に出れば黄昏時にして、飲み屋の明かりが道ゆく人を誘う。
界隈を軽やかにそぞろ歩く。
野毛は言わずもがな、
酒場の密集地帯である。
まったくいつから飲んでいるのだろうか。
いったいどんな仕事をすればこんな早くから飲めるのだろう。ひとりひとりにその職業と階級を聞いてみたいものである。仕事中にこの光景をみかけると、そんな不思議な気持ちと羨ま
今日はちょっとだけその仲間入りができた気がして、
るんるんした足取りが急に止まった。
愕然とした。
しばし立ち尽くした。
ジャズ喫茶「ちぐさ」が跡形もなく、
更地になっていた。
3年前に一度だけ来たことがある、昭和8年創業の老舗のジャズ喫
女性1人で来るのは珍しいと、
特に足繁く通った常連ではないが、
昭和の喫茶店、
調べたところ、創業90年になる2023年に博物館とライブハウ
かなり近代的な建物になる様子である。
時を経たことが一目でわかる味のある建物が好きな私としては切ない気持ちでいっぱいだが、時代の流れには抗えない。
哀れさを感じつつも、気を取り直して再び歩く。
直感を研ぎ澄ませよ~店の選定~
18時で開店まもないのか、あるいはその他の事情か、
そんな中でもひときわ威勢のいい声が通行人をひきつけ、店内の活況が路上
「ちぐさ」の衝撃以来の足取りで立ち止まり、
角をまがり、
結局、そのブロックを四角く一周してまた「串兵衛」
よし。今日はここに決まりっ!
期待通りの声でお出迎え。
いい酒場の持論を展開してもいいですかね?
まあ、とりあえず席に座ろう。
と、入ってすぐのカウンター角の席に腰を下ろす。
いい酒場の条件。
それはお店の人の「声」である。
通る声。
この声が飛び交うのを背景にして飲む酒が美味いのである。
この声はどんなに大きくても邪魔になることはない。例えば2人客
そして、1人飲みにとってはまるで心地良いBGMを聴いているか
わたしは名酒場の条件にまず「声」をあげる。
なんてことを考えながら、とりあえずも何もない「生」
「はい生です〜」と早い。
酒が飲める飲めるぞ〜酒が飲めるぞ〜♪
と歌ができるのもわかるくらいに最初のひと口が堪えられない美味さ
左側のついたての向こうには年50〜60歳くらいの2人連れの男
右側のカウンターを90°曲がったついたての先には若いカップルがいるが
その間にも2人客、3人客、
ぼんじり
ハツ
かしら
牛もつ煮込み
を注文する。
目の前にガラスの冷蔵ケースがあり、仕込み串の山が放つ美しい色彩が、活きのよさを静かに伝える。
ひと串の一つ一つの旨味と弾力を、
ミニトマトと豚バラ肉の美しさ
冷蔵のガラスケースの中に、豚バラ肉のうす皮をまとったミニトマトが3つ、竹串に貫かれて嬉々として銀のトレイに積まれている。
真紅のツヤ肌に緋色の浴衣をまとってうふふ♪とこちらを伺う佇まいが艶めかしい。
きれいだな。
かわいいな。
あ。この人生もいつか終わるんだな。
と喧騒の中、ミニトマトの肉巻き串の山を見ながら、
いつか見れなくなる。
いつか聞こえなくなる。
そして、このカウンター席に座るわたしも、
いくつかの恋を終わらせてきたし、
いくつか仕事を変えたりもした。
でも人生は続いている。
まだ死なずに生きている。
そしてしばらくは続くのだ。
わたしは人生に何かを求められている。
誰も何もわたしに求めたりしないが、
この命の燃やし方を。
野毛にきたらまたこの店の前を通るだろう。
威勢のいい声に誘われて、
ミニトマトと豚バラ肉の美しさに目を奪われながらカウンターの席に座り、
「熱いのでお気を付けください」とお店の人に心配されながら焼きたてのミニトマトの肉巻きをおそるおそる頬張るだろう。
命の燃やし方を、
たぶんここに学びに来るだろう。