45歳独身女の独白

「ブログを書く時間がない」という理由で会社を辞めた45歳独身女の独り言

インド料理屋放浪記

営業兼インド料理屋放浪

隣の客はよくナン喰う客だ。

わたしは時折、このように自分のことを、隣の客になりすまして見ていることがある。

よく行くインド料理屋でも、調理場にいるインド人の店員と以心伝心、見たものを石に変えるというメドゥーサの如き眼力で、目を合わせただけで即座に追加のナンが運ばれてくる、とまではいかないけれども、店員と目を合わせ、人差し指で数字の「1」を示した後、拝むように両手を合わせれば、追加のナンが焼き上がるという具合だ。

 

以前勤めていた不動産会社で残業をしていた際、「小腹がすいた」とおもむろに鞄からアルミホイルの小包みを取り出し、昼食の際に残して持ち帰ったナンを食べ始めたときには、上司も唖然、周りの同僚も、半笑いの呆れ顔だった。

 

また、同じ不動産会社の別の支店では、営業に出かけるとき、行き先を書くホワイトボードに「高津区と書いて事務所を出たのだが、食事は隣の多摩区にある行きつけのカレー屋にしようと、高津区の仕事を終え、多摩区へ向かって車を走行中、上司の車とすれ違ったのも気付かずに、のちに携帯を確認したら、その上司から「そっちはカレー屋ですよ」というメールが入っていたこともあり、さすがにそのメールを見た時には車の中で苦笑したが、とにかくわたしの無類のカレー好きは、もう業務遂行上の共通認識として、周知のこととなっていた。

 

まわりからは、小池さんは営業ではなくカレー屋に向かった、と思われていたようだが、もちろんそんなことはなく、ただ、営業に行く先々で、カレー屋を見つけては入るというのを、ひとつの楽しみにしていたのは確かなことである。

 

そのように、首都圏の、主にインド料理屋を中心に探究してきた過去数年に渡る味覚体験の中で、3本の指に入る推し店の一つが、東急田園都市線すずかけ台」駅徒歩1分のインド料理屋「マラバル」である。

地味で異色な店「マラバル」

すずかけ台駅

仕事がなければ降りることはなかったであろう、東急田園都市線各駅停車の駅。

 

改札を出るとすぐ左側にローソンがあるが、ほかにあるものと言えば信用金庫、ドラッグストア、歯科くらいなもので、スーパーやパチンコ屋、ディスカウントストアなどの類はなく、ほんの少し歩けば、すぐ閑静な住宅街が広がる、ひっそりした街である。

 

「マラバル」は、そんな閑静な住宅街の中にあって、ひときわ異彩を放っている。

中が暗くても営業中

外から店の中をうかがうと、営業していないのでは?と思われるほど、中の様子が暗くて見えない。かなりドアに顔を近づけてみて、ようやく人がいるのを確認し、店の中に入る。

 

初めのころは、この店に来るたびに、注文したことのない他のメニューをたのんでいたが、ある時からCセットの、バターチキンカレー、辛さ普通、ナン、マンゴーラッシーに落ち着いた。「マラバル」にくればメニューも見ずに即座にCセットの前述の内容を注文するようになった。

 

バターチキンカレーはお子ちゃまのカレーと侮らないでほしい。バターチキンカレーひとつで、その店の扱うトマトやスパイス、バターなどの質と量と鮮度と技量が推し測れるほど、その店を象徴するものであり、店ごとの個性が表れるメニューである。

 

また、決してわたしは辛いのが苦手なわけではない。

 

バターチキンカレーがもっとも美味しく感じられる辛さとして、「マラバル」では「普通」を選んでいるだけで、例えば他のマトン(羊)ともなれば、選ぶ辛さの度合いもまた変わってくる。

 

何を隠そう、わたしの家には、即座にスパイスカレーが作れるよう、下記のスパイスが常備されているくらいで、スパイスの配合と加減の研究には余念がない。

 

クミン

カルモダン

コリアンダー

ターメリック

シナモン

カイエンペッパー

クローブ

ローリエ

レモングラス

花椒

S&Bカレー粉(業務用)

スパイスカレー三昧境へ

とはいえ、出先で「今夜はカレーにしよう」と突然思い立つものだから、重複して購入してしまっているものや未開封のものもあり、おびただしい量のスパイス小瓶の密集に愕然とする。

 

また、なぜ購入したのか、いま考えると本当に理解に苦しむが、S&Bカレー粉(内容量400g)の真っ赤などデカい缶が、冷蔵庫の中で鎮座しており、賞味期限をみると2023.1.27となっている。恐るおそる蓋を開けてみて失笑した。その量、悠に2/3は残っているではないか。

 

これでは、「今夜なにしよっかな〜♪」などと悠長に献立に悩み惑うことなど、もはや許されない。

 

向こう3ヶ月は迷うことなく、ただひたすらにスパイスカレーを作り続けるのみである。

 

おそらく3ヶ月後には、世にも斬新なスパイスの掛け合わせで独自のメニューを開発し、新横浜にスパイスカレー屋を開業、タンドリ窯を構え、インド人を招聘して本格ナンを提供する、なんてなことを夢見つつ、日々研究に励んでいこうと思う。

 

「マラバル」のカレーが運ばれてきた。

 

ぷぅんという甘いナンの香りが鼻先をかすめる。

新鮮なバターを贅沢に使っている証である。

 

そして、贅沢といえば、パンにしろナンにしろ、焼きたてをいただくということ以上に贅沢なものはない。

 

生まれたての、初々しく柔らかな食感は、あの瞬間にしか味わえない至福である。

 

そんな至福のナンを手でちぎり、バターチキンカレーの、バターが溶けているあたりを目がけてグイと突っ込み、お口に運んで賞味する。ナンとカレーがお互い最高の相性である。

 

ナンがどんどん進む。はかゆく。そして、焼き上がりの時間を逆算して、調理場のインド人と目を合わせ、手話を交わす。追加のナンの注文である。

 

まー、確かにこれは、上司も同僚も隣の客も呆れるくらい、よくナン喰う客であることだなぁ。わたしは。

 

と、「マラバル」でひとり詠嘆にくれるのもいいが、当面のあいだは、自宅でスパイスの消費活動に専念したい。

小説心中〜宇佐見りん「推し、燃ゆ」~

呪縛を解くドトールコーヒー

8:30。富士見台駅。

 

胃が重い。前頭葉も重い。

普段は意識しない内蔵の、所在と重さをやけに感じる朝である。

 

駅の上りエスカレーターの途中、「これが脂肪1キログラムです」とにこやかに乳白色の塊を持つ男性の写真に胃がゔッぷと反応した。

 

いま、それと同じような白いものが、頭頂部あたりに停滞し、運動機能全般を鈍らせている。

 

昨夜、予定外の焼肉屋で、琥珀色をした、躍る炭酸が楽しげな飲み物、つまりハイボールを、調子に乗って飲みすぎた結果である。この因果は甘んじて受け入れるべきであると思う。

 

ゆらゆらと漂うように自動改札を出る。

 

胃の指令に基づき、改札を出てすぐのドトールに入り、コーヒーを体に流し込む。

 

程よい苦味の、褐色の液体が、頭頂部に停滞する乳白色の塊を、さらさらと撫でるように溶かしてゆく。半分ほど飲み終える頃には、倦怠感はほとんど消えてなくなり、からだはすっきり覚醒していた。

 

内蔵はよく働いてくれる。毎日休みなく。眠ることもなく。とても優秀である。それに引き替えわたしの日常といえば…惰眠を貪り、肉を喰らい、酒に燥ぐ。一体何の価値を生み出しているのか、甚だ疑問である。

 

ひとまず惰眠はそんな優秀な内蔵へのねぎらいということにしよう。

 

読みかけの宇佐見りん「推し、燃ゆ」を読む。

天才小説家、宇佐見りん

21歳にしてこの成熟。天才。

この世にどれだけの天才が存在するのか、考えたこともないが、宇佐見りんがその一人であることはまず間違いない。

 

もはや現実の住人が描く小説ではなく、小説の住人が現実を描いている。小説に住む人、宇佐見りんである。

 

昨年話題になった小説だが、まったく張ってなかったので、存在はうっすら認識はしていたものの、手に取ることはなかった。それが今になって飛び込んできた。

 

書き出しでもう震撼した。

 

読み始めたら最後、魂を鷲掴みにされたまま、小説と心中する結果となりますのでご注意を…

 

もう四十路半ばとなるのに体が記憶している、青春の匂いと風景。

 

教室の窓、冬のストーブ、廊下の足音、上履きの汚れ、プリントを後ろに回す時の手ざわり、インクの匂い、椅子を机に重ねて教室の後ろに運ぶ時にぶつけた脛の痛み…精緻な描写が当時の記憶を鮮やかに呼び覚ます。

 

ふと、大学生の頃に読んでいた、坂口安吾の「暗い青春・魔の退屈」という短編小説集を思い出した。その短編集に対するわたしの愛着は異常な程で、当時、表紙カバーの折り目が破れ落ち、とれた破片を栞がわりに挟んでなお持ち歩くほど、破壊的・偏愛的な読み方をしていた。

 

なにも太平洋戦争が青春を暗くしていたのではない。青春とは暗いものだ。青春は戦争そのものだ。そのように青春を看破した安吾に呼応するかのように、「推し、燃ゆ」の全般を生存の「重さ」が支配している。

 

"肉体は重い。水を撥ね上げる脚も、月ごとに膜が剥がれ落ちる子宮も重い"

 

"勝手に与えられた動物としての役割みたいなものが重くのし掛かった"

 

なべて青春というのは、誰にも平等にこの”重さ”がつきまとうものではないかと思う。

 

タイトルにある「推し」というのはここでは偶像崇拝する対象、いわゆる「アイドル」である。 

 

主人公のあかりが推したのは、アイドルグループ「まざま座」の上野真幸(うえのまさき)。

 

あかりは真幸の「眼球の底から何かを睨むような目つき」で気づく。自分の中にも同じものがあることを。そして、その「目つき」こそがこの重くのしかかるような現実を生きるエネルギーになっていることも。

 

その「目つき」は、周りの大人は誰ひとり自分を、ひとりの人間としての自我と実存を認めてくれないという現実への絶望と怒りから放たれるものであった。

推しか、死か。

炎上し、引退していく「推し」。

 

ピーターパンが大人になる、そのリアルの厳しさと距離の優しさ。実存の危うさ。

 

「推しは命に関わるからね」と、友人の成美があかりに言う。

 

推しを推すのは命がけの所業だ。

 

高校のクラスメイトに、現実世界の全てはTMネットワークを中心に回っているあっちゃんがいた。あっちゃんは小室哲哉でも宇都宮隆でもない、木根尚登推しだった。

 

あの、あっちゃんの狂的な、全生命を賭す木根への忠誠、愛し方にこそ「推し、燃ゆ」の青春を見るのである。

 

そして、全生命を賭す何かがある限り、きっと青春はどこまでもつづくのだろう。

 

ハイボールでフツカヨイの身に青春の日は遠いが、限りある命の時間を、狂うように、捧げるように生きれたら幸せだろうなと思う。

 

重かったはずの胃も前頭葉も、今では黒子のように存在を消し、粛々と生命維持活動を続けている。感謝。

 

小説酒場放浪〜新橋・ニューニコニコ~

新橋。1730

本屋営業パラドックス

営業は野球に似ていると思うときがある。

 

打たれてからの、つまり断られてからの心の在りようでその後の展開が変わる。奇跡も起こる。

 

得てして思わぬ展開が待っていることが多い。

 

品川のB書店で福地さんに会う。

 

福地さんらしき人は先客と対応中だったので、対応が終わりバックヤードに戻ったのを見計らい、レジの女性に声がけする。

 

「出版社Kブックスの小池と申します。福地さんはいらっしゃいますか?」

「今日はご予約はしてますか」

「はい、15時から」

「少々お待ちください」

 

と言ってレジの女性が奥のバックヤードに通じる扉を開け、中にいる人に要件を伝える。やはり先ほど先客の対応をしていたのが福地さんのようだ。

 

すぐに青いエプロンを身につけた背の高い男性が出てきた。

 

挨拶をし、訪問の趣旨を伝える。

 

話をしている時からやや体を斜め後ろに反り気味にして訝しげな視線を送っていた福地さんは、その表現した通りの言葉を次いだ。

 

「基本、取り引き実績のない出版社との契約はお断りしてるんですよ。他店で取り引きがあれば、他店での売れ行きなども見てから判断させていただきますが、こう言っちゃなんですけど、売れるかどうかもわからないものを仕入れることはできませんから

 

ごもっともである。

 

福地さんの言葉が至極当然のような気がした。

 

と同時に、福地よ少しノリが悪いぞとも思った。

 

まあこういう時は無理強いをせず、相手の意向を受けて引き、機を改めることにする。品川の通行量の多い立地であるから、ただでさえ福地さんは忙しいのだ。

 

「お忙しい中お時間をとっていただきありがとうございました。福地さんのご意向を伺えてよかったです」

 

福地さんはまた先程のバックヤードに消えていった。

 

出鼻をくじかれ鼻先がつーんとした。3秒ほど虚空を見ながら、しかしすでにこころは隣の大崎に向かっていた。

 

この大崎から新橋までの3書店は、アポなしの飛び込みながらも運良く店長または仕入れの担当と会うことができ、全員が快くこちらの趣旨を受け入れてくれ、店頭での面展開の約束を取り交わしてくれた。  

 

先のことはわからないものだ。初見アポなしはリスクが多く、とりあってくれない確率が高いと言われていたが、そこを押して行ってみたら、思わぬ展開を引き寄せることができた。

 

引き際よく、あとを引かずに次に行けば、その逆もまた真なりという新たな展開を引き寄せる。これぞ「引き寄せの美学」。

 

と、よろしく着地が決まったところで、ここは新橋。自然、足がSL広場方面へと向かう。

 

そして吸い込まれていくように入っていくのが、その幾何学的なファザードがここが新橋であることを知らせてくれる1971年創業の「ニューしんばしビル」である。

憩いの地下街で読む「おいしいごはん」

なんなんだろう。

たぶん「郷愁」なのかもしれない。

無性にワクワクするのだ。

 

ニュートーキョー、ニューオータニ、ニューグランド、ニュー岡部。

 

だいたいにして名前に「ニュー」がつくものが実際において「ニュー」であったことはなく、そのどれもが隠しきれない郷愁・哀愁を漂わせている。

 

この建物は、わたしが大学生のころから出入りしていた。

 

その頃、このビルにテナントとして入っていたフラメンコ教室に通っていたことがある。

 

当時フラメンコにも興味があったのだが、それ以上にこのニューしんばしビルに興味があり、ここのフラメンコ教室ならば定期的にニューしんばしビルに来ることができるのが、教室を選ぶうえでの決定打となった。

 

正面の入り口を入ってすぐ右にあるエスカレーターを地下へと降りてゆく。

 

【憩いの地下街】というキャッチフレーズがお出迎えをしてくれる。この言葉が、半世紀の間、どれだけ多くのサラリーマンのネクタイを緩め、緊張をほどいてきたことだろう。

 

地下フロアは、居酒屋をはじめ、バー、中華料理店、カレー屋、ラーメン屋、牛カツ屋、チャーハン屋、寿司屋、餃子屋、洋食屋、茶店、ゲームセンターなどが軒を連ね、ひしめき合っている。

 

それぞれの店内の様子を覗きながら徘徊するのも楽しい【憩いの地下街】。

 

わたしは、おそらくエスカレーターを降りる段階から9割がたは決めていた店「ニューニコニコ」の暖簾をくぐった。

 

ニューニコニコ。

 

まず、屋号がいい。ニコニコ。いつの時代も笑顔が人を癒し、憩いの場をつくってきた。

 

そして屋号に「ニュー」がつく店がわたしの期待を裏切ったことはかつて一度もない。

 

午前11時から営業している居酒屋である。

禿頭・白髪率が高い。

 

入ってすぐ右の小上がりには常連と思われる、禿頭・白髪がそれぞれ5割のバランスをキープしている快活な男性客が焼き場専任の女将さんと仲良く話しながら大相撲中継見ている。

 

この店は焼きものがいい。

なにせ柔和な笑顔が可憐な女将さんが50年間この焼き場を守っているのだ。

 

生ビールとサバの塩焼きを注文する。

 

隣の席の男性客はマグロの中落ちをつまみながら視線を真下に落とし、週刊誌の漫画を読むことに余念がない。

 

生ビールがくる。

焼き場の女将さんが、丁寧にサバを焼いてくれている。

 

大相撲中継も終盤にさしかかり、勝敗が決まるたびに店内に小さな響めきが起きる。

 

わたしはビールで喉を潤しつつ、全国の書店の文芸部門で軒並みランクインしている高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」の続きを読み始める。

「二谷」と一杯

これほどまでにカップラーメンが美味そうに描かれている小説もない。そして、これほどまでにカップラーメン以外の食べ物がまずそうに描かれている小説も珍しい。

 

何の因縁か、二谷は食に対して、そして女に対して根本的な「怒り」を抱いている。

 

弱者が勝者であり、強者が敗者であるという、現実生活におけるパラドックスが二谷、芦川、押尾の三角関係を中心に職場、酒場、二谷の家などで展開されている物語である。

 

じっくり時間をかけて焼かれたサバの塩焼きを女将さんが運んできてくれた。

 

香ばしくパリッと焼き上げられたサバを一切れ、噛み締めるほどにじゅわっと旨味と滋味が五臓六腑にしみ渡る。

 

大相撲中継は、結びの一番である大関貴景勝関脇豊昇龍戦が始まろうとしていて、話し込んでいた4人組も、一人の客も、小上がりのおじさんも女将さんも皆、視線が同じ方向に集まりはじめた。

 

「浴びせ倒し」という聞きなれない技で貴景勝に土がついた瞬間、店の全員が思わずその逆説的な展開に「あ!」と声をあげた。

 

店全体が一体となった瞬間だった。

 

少し時が止まったかのように思えたのも束の間、次の瞬間にはそれぞれが自分のしていた事に戻って行った

 

結局、最後に勝つのは弱者に見せかけた真の強者か。

 

そして二谷よ。お前はいったい何がしたいんや。煮えきらない奴だ。お前はもう「にちゃに」だ。

 

不本意な職場と不本意な女の間でにちゃつくのもいいが、そろそろまっとうに文芸に生きたらどうだ。

 

食うに困りたくないから経済学部を選んだが、本心は文芸だろ。

 

ただ、どんなに「にちゃに」が煮えきらなくても、結局最後は芦川が勝つに決まってる。

 

芦川には誰も勝てん。

芦川最強説。

 

と、新橋「ニューニコニコ」で架空の登場人物である二谷を相手に絡んでしまうくらいユニークな一冊だった。

アングラ喫茶巡礼〜神田・神保町〜

ときめきの”アングラ”

11:30。神保町。

決してさぼるのではない。

れっきとしたランチタイムだ。

 

東京堂書店でIさんに会う。

電話でアポイントを取った時から思っていたが、なんてノリのいい人なのだろう。

 

考えてもみてほしい。

 

見ず知らずの、聞いたこともない出版社の女が、突然電話をかけてきて、会いたいと言ったら翌日会ってくれることになり、当日挨拶するなり、伏し目がちながらも親身に話を聞いてくれて、どちらかというと不得意とするジャンルの本を店頭に並べてくれるというのだ。

 

こんな伏し目がちな挑戦者は、藤井聡太九段以来である。もちろん藤井聡太九段がわたしに直接挑んできたことはない。

 

本屋の店内であるため、わたしは小声でIさんに謝意を伝えて東京堂書店を後にした。

 

初対面ながら初受注。やや小躍りしながら向かったのが1955年創業「さぼうる」である。

昭和・平成・令和の歴史を刻む老舗喫茶

屋根を模したのだろうか、断面が丸い薪のようなものを幾つも積み重ねて安達太良山を描いたようなファザード、波打つ軒下にはひときわ目を引く赤電話。

 

魔除けのような彫刻が施された木柱と木製の梟が並んで通行人、来店客、そして街の、時代の移ろいを見守っている。

 

店内は期待を裏切らないアンダーグラウンド感。地上なのに地下な感じ。外はもう9月も半ばを過ぎようとしているのにそれに抗うかのような晩夏の陽射しが照りつける中、店内はその太陽光を遮断しようという意思すら感じさせる程に所狭しと様々な調度品が並び、極度に明るさが抑えられている。

さぼうる神社?祭壇が気になる

忌野清志郎と思われるシャウトが低音で響き渡る。

 

入るとすぐ地下へ向かう階段と、中2階へ向かう階段がある。

 

わたしはこの、喫茶店内にある階段というものが好きで、なにか画一的ではない感じというか、一つの限られた空間を最大限に活かしていかようにも楽しんでやろうとする企て•試みに特別な趣を感じ、まるで公園に滑り台を見つけた子どものようなときめきを覚える。

ビーズの簾。むかし実家の玄関にあった

 

そんな、ときめきの階段を中2階へと進む。

嗜みと慎み

ピザトースト(大)とコーヒーを注文する。

ピザトーストに(並)と(大)があるのをはじめて見た。

 

チーズ好きである故に、迷うことなくピザトースト(大)を選ぶ。

 

ピザトースト(大)とコーヒーが来るのを待つあいだにPCを広げようと思ったが気が失せた。

 

おおよそPCをカタカタいわせるのが似合わない空間である。ここでPCのブルーライトを浴びるのは愚の骨頂、ぼんやりと虚空を眺めながら空間に身を委ねるのが慎み深い態度であり、店への礼節であるような気がした。

 

思えばその存在を気にしながらも、なぜか一度も足を運んだことがなかった「さぼうる」。

 

学生と思われる若い女性客が意外といる。

 

光が差しこむ、明るい、小洒落たカフェだけが今、求められているわけではなく、「さぼうる」のような、ひと足店内に踏み入れただけで不思議な倒錯を引き起こす、薄暗がりで非日常の、唯一無二の世界にいざなってくれるような喫茶店を、実は人はどの時代も求めているのかもしれない。

レンガ調の壁には年代物の”落書き”がある
魅惑のピザトースト(大)

ピザトースト(大)が運ばれてきた。

 

すでに融点に達している大量のチーズが厚切りトーストにのしかかっているさまは、いやが上にもチーズ好きのこころを躍らせる。

 

茶店ではこのようないわゆる「軽食」が絶品であることが多い。

 

軽い食と書いて軽くあなどれないのである。

立体感が嬉しいピザトースト(大)

ひと口齧るとブラウンマッシュルームとトースト・オニオンがうねるチーズの隙間からするり抜け、マッシュルームは皿、オニオンはスカートをバウンドし床に落ちた。オニオン片をそっと紙ナプキンに包んで救出する。

 

そんな躍動感もピザトーストを齧る楽しみの一つである。

 

引き続き店内は忌野らしき声がこの店の均衡を保っている。

 

わたしはチーズの風味がお口に残ったまま終わってもコーヒーがあるので全く問題なかったのだが、最後に運ばれてきたお口直しの(と店員は言った)柚子シャーベットのまるで仏蘭西理フルコース、そのメインディッシュの後を彷彿とさせるような演出が心憎いぞ、さぼうるよ。

フレンチのような心遣い

「さぼうる」とはスペイン語で「味」という意味だそうだ。

 

お後がよろしいその爽やかな甘みに、どんなに時代が変わろうとも地下に埋もれない「さぼうる」の心意気をみた。

 

小説酒場放浪〜渋谷・鳥竹総本店~

 

記憶の迷路「百軒店」

渋谷。18:00。

 

東急百貨店を目指すのに、間違えて道玄坂を登り、百軒店を過ぎたあたりでこりゃ怪しいと判断、百軒店のネオンをくぐり、名曲喫茶「ライオン」のひときわ異彩を放つ建築と微かに漏れるクラシックにうしろ髪引かれながらホテル街を抜ければ目の前に現れた目的地、東急百貨店。

 

このあたりはやけに懐かしい。

 

Bunkamuraシアターコクーン明石家さんまの舞台を観たり、確か怒髪天のライブもこのあたりだったような気がする。そう言えば20歳くらいの頃、何を思ったかホステスを目指し、服を着替えさせられたが、全くもって気が利かず使いものにならなかった記憶もこのあたりだ。今はもう記憶の中の人と、8年前の雪の降る夜に肩よせ歩いたのもこのあたりである。

 

そんなまばらな記憶の断片が浮き沈みする界隈を不思議な感覚で歩きながら、東急百貨店で用を済ませて駅方面へと坂を下る。

 

啓文堂書店では担当の方が不在、仕方なく出直そうとしたそのときに見つけたのが町田康の短編小説集「記憶の盆をどり」。

 

この本を片手に啓文堂書店から徒歩10秒、昭和38年創業の「鳥竹総本店」へ決然と歩を進める。

ほの暗く昭和ニヒルな空間「鳥竹総本店」

井の頭線渋谷駅西口徒歩10秒、もくもくの煙が目印

扉を開けると逆くの字になっているカウンターで、すでに一人飲みの男性客が3名ほど、思い思いの「鳥竹」を堪能している。

 

一番奥のカウンター席についた。

 

見上げるとずらり手書きのメニューが貼ってあり、いやがうえにも期待が高まる。

値段が書いてないのが少しく不安になるが、卓上に詳細メニューがあるのでひと安心。

車だん吉のサインがユーモラス

三岳の水割り

首肉

ぼんぼち

煮込み

 

を注文し、早速「記憶の盆をどり」の扉を開く。

盆をどる

その日本語の豊かさと自在さによって、他の誰にも似ないし真似することができない町田康の世界に瞬く間にいざなわれる。

 

賑やかな客の笑い声が聞こえる2階に対して1階は静か気ままに酒肴を楽しむひとり飲みたちの時間が流れる。

 

そんなニヒルな空間で読むのにぴったりの「エゲバムヤジ」。たった7ページで表現される生命と愛の美しさと金に目が眩む人間のおかしみ、やるせない本質。

 

三岳の水割りがくる。

 

その名のとおり、野趣あふれる芳香が口の中に広がる。

 

首肉、ぼんぼち。

おしりフリフリさせながらせわしなく歩くさまが目に浮かんでしまう、その締まりのある弾力を塩で味わう。

 

単品でライスをたのもうかと迷うほど、ご飯にかけて食べたら絶対にうまい煮込みの汁を最後の一滴まで余すところなく飲み下す。

 

いい空間。いい酒肴。いい小説。

 

久々の渋谷で迷い込んだ百軒店でひとり、記憶の盆おどりをしながら、引き寄せた町田康の小説をアテに三岳で盆をどる。ファンタスティック。



哲学酒場放浪~横浜・野毛~

意のままに

桜木町。18:00。

この場所、この時間に仕事が終わった。

特段、狙ったわけではない。

作為でないとしたら、もう天の配剤と呼ぶしかないだろう。

道はひとつ。

 

野毛。

野毛一択である。

 

われただ天意に身を捧ぐのみ。

 

なんてことはさておき、とにかく歩きに歩いたし、喉が乾いた。体があの浅草•墨田川沿いに聳え立つ金に煌めく建物が意図した飲み物を求めている。 

 

要するに麦酒、ビールである。

 

JR桜木町駅南改札前を横切り、エスカレーターを降りて「野毛ちかみち」をゆく。

 

地上に出れば黄昏時にして、飲み屋の明かりが道ゆく人を誘う。

界隈を軽やかにそぞろ歩く。

 

野毛は言わずもがな、

酒場の密集地帯である。

 

まったくいつから飲んでいるのだろうか。

もう既に多くの酔客がそこかしこで酒宴を繰り広げている。

 

いったいどんな仕事をすればこんな早くから飲めるのだろう。ひとりひとりにその職業と階級を聞いてみたいものである。仕事中にこの光景をみかけると、そんな不思議な気持ちと羨ましさでいっぱいになる。

 

今日はちょっとだけその仲間入りができた気がして、さらに軽快に進みゆく。すると。

 

るんるんした足取りが急に止まった。

 

愕然とした。

 

しばし立ち尽くした。

 

ジャズ喫茶「ちぐさ」が跡形もなく、

更地になっていた。

ちぐさ跡地

3年前に一度だけ来たことがある、昭和8年創業の老舗のジャズ喫茶。

 

女性1人で来るのは珍しいと、店主が手厚くもてなしてくれたのを覚えている。

 

特に足繁く通った常連ではないが、

昭和の喫茶店それも希少性の高いジャズ喫茶がなくなるということにやり切れない気持ちになる。

 

調べたところ、創業90年になる2023年に博物館とライブハウス機能を備えた「ジャズミュージアム•ちぐさ」に生まれ変わるのだそうだ。(ヨコハマ経済新聞 2022.2.15)

 

かなり近代的な建物になる様子である。

 

時を経たことが一目でわかる味のある建物が好きな私としては切ない気持ちでいっぱいだが、時代の流れには抗えない。

 

哀れさを感じつつも、気を取り直して再び歩く。

直感を研ぎ澄ませよ~店の選定~

18時で開店まもないのか、あるいはその他の事情か、客が全くいない店もあれば、そこそこ入っている店、賑わいのある店とさまざまな様相を呈する野毛。

 

そんな中でもひときわ威勢のいい声が通行人をひきつけ、店内の活況が路上に漏れるのを抑えきれない店があった。「串兵衛」という屋号からして串焼きを専門とする店であることがわかる。

 

「ちぐさ」の衝撃以来の足取りで立ち止まり、店先のメニュー表を覗き込み、改めて店内の様子を伺う。そうこうしているうちに店員さんから声をかけられそうなので、とりあえず様子見で一旦やり過ごす。

 

角をまがり、ほかの店も覗いてはみるけど、あの威勢のいい声と楽しげな店内の雰囲気が脳裏に焼き付いて離れない。

 

結局、そのブロックを四角く一周してまた「串兵衛」の前にたどり着いた。

 

よし。今日はここに決まりっ!

 

期待通りの声でお出迎え。

 

いい酒場の持論を展開してもいいですかね?

 

まあ、とりあえず席に座ろう。

と、入ってすぐのカウンター角の席に腰を下ろす。

 

いい酒場の条件。

それはお店の人の「声」である。

 

通る声。

一声が弓矢のごとく店の端から端まで届く声。

広沢虎造清水次郎長伝ばりに威勢のいい声。

 

この声が飛び交うのを背景にして飲む酒が美味いのである。

 

この声はどんなに大きくても邪魔になることはない。例えば2人客の会話を遮るような不粋なことはしないのである。

 

そして、1人飲みにとってはまるで心地良いBGMを聴いているかのように思考の邪魔をしない。集中力を途切れさせない優しさすら感じるのだ。

 

わたしは名酒場の条件にまず「声」をあげる。声がもう既に「名店」なのである。

 

なんてことを考えながら、とりあえずも何もない「生」一択である。

 

「はい生です〜」と早い。

 

酒が飲める飲めるぞ〜酒が飲めるぞ〜♪

 

と歌ができるのもわかるくらいに最初のひと口が堪えられない美味さである。

 

左側のついたての向こうには年50〜60歳くらいの2人連れの男性客が仕事や家族の話をしている。

 

右側のカウンターを90°曲がったついたての先には若いカップルがいるが、1人で飲んでるの?と思うくらい会話が聞こえない。話している様子がない。

 

その間にも2人客、3人客、予約の宴会客など続々と入ってきて賑わいMAXの店内。

 

ぼんじり

ハツ

かしら

牛もつ煮込み

 

を注文する。

 

目の前にガラスの冷蔵ケースがあり、仕込み串の山が放つ美しい色彩が、活きのよさを静かに伝える。

ひと串の一つ一つの旨味と弾力を、瞳を閉じて味わう。もうこれは命と命のやりとりであり、儀式である。旨味と歯ごたえの違いを楽しみながら感謝していただく。

ミニトマトと豚バラ肉の美しさ

冷蔵のガラスケースの中に、豚バラ肉のうす皮をまとったミニトマトが3つ、竹串に貫かれて嬉々として銀のトレイに積まれている。

 

真紅のツヤ肌に緋色の浴衣をまとってうふふ♪とこちらを伺う佇まいが艶めかしい。

 

きれいだな。

 

かわいいな。

 

あ。この人生もいつか終わるんだな。

 

と喧騒の中、ミニトマトの肉巻き串の山を見ながら、

この楽しい光景にも終わりが来ることを思った。

 

いつか見れなくなる。

 

いつか聞こえなくなる。

 

そして、このカウンター席に座るわたしも、隣りの男性客も静かな若いカップルもこの世から消える。

 

いくつかの恋を終わらせてきたし、

いくつか仕事を変えたりもした。

 

でも人生は続いている。

 

まだ死なずに生きている。

 

そしてしばらくは続くのだ。

 

わたしは人生に何かを求められている。

 

誰も何もわたしに求めたりしないが、わたしの人生だけはわたしに求め続ける。

 

この命の燃やし方を。

 

野毛にきたらまたこの店の前を通るだろう。

 

威勢のいい声に誘われて、

ミニトマトと豚バラ肉の美しさに目を奪われながらカウンターの席に座り、

「熱いのでお気を付けください」とお店の人に心配されながら焼きたてのミニトマトの肉巻きをおそるおそる頬張るだろう。

 

命の燃やし方を、

たぶんここに学びに来るだろう。